桜色の忘却曲線

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「これから冷蔵庫に入っているものをいっこずつ言っていきまぁす」


三寒四温という言葉はどこへ行った? と問いかけたくなるような今年の春。
咲いた後で寒気がぶり返したので今年の桜は、花が長持ちするかと思いきや、あっという間に散ってしまったー4月も中旬のとあるかわたれどき(彼は誰時)。


「かわたれどき」は「たそがれどき」の対になる言葉だそうで、夜明け前、あたりがまだ暗く目の前の人の顔を見ても誰なのかがわからないくらいの明るさしかない時間帯のことをさす。
数年前に公開された映画『君の名は。』で一般にも知られるようになった言葉だと思う。
そう感じるのもアニメや映画を観る層だけだろうが。



そんな時間帯にさっきの突拍子もない事を言い始めたのは、リビングのドアの向こうで容量110リットルの冷蔵庫に向き合い床に体操座りしている陶子(とうこ)さんだ。
2ドアでなければそのままの姿勢で収まってしまいそうだ。


上下揃いで裏起毛のグレーのスウェット。
サイズが大きめだからか袖が指の第2関節までかぶっていて、時々急に自分勝手になる性格に似合っているような気がする。
ことりベージュ色だと言い張っているしっとりとしたボブ丈の髪は、部屋の中でも常にぐるぐる巻きにしている桜色のストールに埋もれている。



≪今から行っていい?≫


金曜日の夜、日も変わりそうな頃合いにLINEのポップアップを発見した時には、シャワー上がりという事を抜きにして確実に体温が上がっていたと思う。


≪もうマンションの階段上がってるとこなんだけど≫



久しぶりの陶子さんの訪問に僕は気もそぞろだったから、特に何も聞かず彼女を部屋に迎え入れ、手土産だと言って渡されたナッツとビールを肴に動画配信サイトで映画を2本観てかわたれどきを迎えた。
陶子さんが僕の部屋に来ることはあっても、僕が陶子さんの部屋に行くことはない。


大学時代の先輩で、一緒にいるとお互い相手のことをどんどんと知りたくなるような間柄だった。
学生会館の閉館時間までラウンジで他愛もないことを議論しながら過ごしたこともあったし、レイトショーの映画を観に行った流れでマクドナルドへ河岸を変え2階席から朝日が見えるまで語り合ったこともあった。


陶子さんが僕の身体に触れてくることはあっても、僕の方からはできるだけそうしないように気を配っていた。
そうしないと歯止めが効かなくなってしまいそうだったから。

ソファを背もたれにして並んで映画を観ている間も、左腕のスウェット越しからかすかに伝わってくる体温を感じながらも僕は平静を装って画面に見入るだけだった。
映画館で観るように部屋の電気を消していたけれど、時折陶子さんの顔を横目で盗み見ていたのは気づかれていたかもしれない。


そして今ーリビングのパソコン画面の光と、陶子さんが開け放している冷蔵庫の庫内灯だけが灯っている。
その灯りに照らされた陶子さんの顔は文字通り、陶器のように青白く輝いていて、夜更かししてぼうっと霞んだ目と頭にはいつもに増してきれいに見えた。



「ワタヌキくんちの冷蔵庫の中にはあんまり物が入っていませーん」

「明日、買いに行くつもりだったんです」



「いちばん上の段には納豆のパックともずく酢? 超健康的じゃん。 2段目は無くて、3段目に卵パックと溶ろけるチーズとコンビニサラダとオイコスいちご味。 横の段には牛乳とーウィルキンソンとー醤油とーソースとーマヨネーズとーオイスターソースとー生姜チューブとーにんにくチューブとー切れてるバター・・・何コレ、ビタミンサプリ? マルチビタミンていろんな成分入ってるんだね。 やっぱ頭にいいの? え、砂糖と塩胡椒も入れちゃってるの?」


ひとつひとつ手に取って読み上げていく様子が子どもみたいで、僕よりも3つ年上の女性ということを忘れてしまう。



「冷凍庫の方はもっと入ってないね。 でも、ご飯冷凍するとかしっかりしてんじゃん」

ご飯茶碗1杯分に小分けして冷凍すると使い勝手がいいって教えてくれたのは陶子さんじゃないか。

「あれー? このハンバーグの種、なんかすごい時間経ってそうなんだけど大丈夫?」

「ーそれはもうちょっとしてから食べようと思ってるんで!」

かかり気味に返事をしたことに驚いたのか、陶子さんが背を少し反らせてこちらを向く。

「なぁにぃー? そんなに特別な物?」



こういう時の「なぁにぃー」は、「ぁ」も「ぃ」も上がり気味になる。
言いながら漏れた息に笑い声が乗って宙に消えていくような、陶子さんの掴みどころのない存在感に惹かれる。



同時に、自分が笑われているように思えてきて、僕は顔を隠すように広げた右手の親指と中指でフレームに触れメガネを押し上げた。
陶子さんの身体が傍から離れたのに、身体の中心は熱を宿したままだった。
その状態を見透かされていそうな気もして、メガネを押し上げたまま右手が顔にへばりついて離れない。



「朝ごはん、作る? このままファミレスに出るのもアリだけど」



これから外には出たくない。
陶子さんともうしばらく二人だけで過ごしたいと思ったと同時に右手は顔から剥がれ落ちて、そのかわりに身体が自然と浮いて右足が前に出た。


リビングから冷蔵庫まで僕が普通に歩けば7歩。
冷蔵庫の前に座り込む陶子さんに辿り着くまでにも気が急いて足がもつれ、その勢いで膝をついたら陶子さんを横から抱き込む形になった。
ラップ包みにされたハンバーグの種が陶子さんの手の中から抜け出しゴトリと着地した音が大きくて、二人とも無意識に身体の動きを止めてしまっていた。



腕の中には体操座りをした陶子さんがすっぽりと収まっている。

顎の下には陶子さんの頭頂部。

陶子さんの口から洩れる息がスウェット越しに僕の腕の一部を蒸してていき、その熱を感じる度に下腹がひゅんと縮みあがる。

警鐘のように鳴り響き始めた僕の心音は、そのまま陶子さんの右の耳に筒抜けに違いない。

髪の香りにむせ返りそうになりながら何とも間抜けな言葉を頭頂部に押しつけた。




「今日、どうして来たんですか?」



二人の呼吸音と、壁時計の秒針の音と冷蔵庫が唸る音しか聞こえない。
陶子さんは少し伸びをして腕の輪から顔を抜き出し、大きくひとつ息を吸って言うー



「残りの桜がもうちょっとで、全部なくなっちゃいそうだったから」




首を捻じってまっすぐに僕を見た眼は、真っ黒な液体が零れ落ちてきそうなくらいうるみを帯びている。

「意味わかんないです。あと、僕がいま食べたいのは先輩です」

うっかりと口にしたのはさっきまで観ていた恋愛映画の口説き台詞よりも恥ずかしいものだった。




「結構前から―――」

「知ってた―――」




どちらからともなく近づき、鼻先が触れ合う。
先に唇を重ね合せるのはどちらか、躊躇した一瞬が永遠に感じられた。
あと1cm、距離を詰めるまでの時間がこの上なく気持ちを昂ぶらせる。
楽しい時間程速く流れるというのは、いまこの時には当てはまらなかった。



「アインシュタインはこんな時間を過ごすことが無かったんでしょうか?」

「なぁにぃ? 理系男子はこんな時にまで薀蓄を傾けるの?」



こんなに好きだと感じている時間は、きっと忘れられないに違いない。
心底そう思った。



もし忘れてしまうなら最初から知りたくはない。

それでもどうしても知ってしまう事ばかりだから僕は陶子さんと出会ってから、どうしたら大切な事を忘れないでいられるかを考え始めたものの結論が出ないことに少し哀しくなってきていた。

それはあたたかみのある哀しさで、毎年咲いては散る桜の花を眺める時の気分に良く似ていた。




二人同時に微笑み、唇の先端が触れ合ったその時ー




何時の間に開いたものか、ベランダに面しているサッシ窓から突風が吹きこんできた。

はためくカーテンの向こうに見える空は、夜が明け始めたばかりの群青とオレンジの二層色で、ところどころに灯りがともるマンションは影絵みたいに黒く浮き上がっている。

ゴウと唸る風と一緒に大量の白いものがこちらに向かって飛びかかってくる。

白い羽虫に見えたそれが桜の花びらと認識するまでに数秒かかった。

どうしてこんなにたくさんの花びらが?

桜吹雪とはこういうものなのか?

理解が追いつけない頭で眺めている間に、花びらは陶子さんだけを包みこみ、僕の腕を彼女から引き剥がしていく。




「――――――、」




風圧で息もできない。

精一杯腕を伸ばしても、花びらで全身繭状に覆われた陶子さんはどんどんと遠ざかって行く。

周囲はいつの間にかブラックホールのような闇に変わり、目の前に伸ばした自分の手の甲すらも見えなくなり始めー



繭から糸が紡がれるように花びらがはらはら落ちていくのが見てとれたものの、その中にあるはずの陶子さんの身体はきれいに消失していた。



僕の声は音になる前に風に飲み込まれ、真空の暗闇の中、両腕を顔の前で交差させて両足を踏ん張ることしかできなくなった。





上げ続け痺れきった腕を下げると元いた部屋の光景が現れた。

そこには花びらが数枚落ちているだけで、陶子さんの姿は既に消えて無くなっていた。

膝を折って拾い上げようとしたら、触れる前に雪が解けるように消えてしまった。

花びらが消えていくのと同時に、僕の身体もひっそりと輪郭を失っていくような心持ちがしていた。






4月の、とある日のかわたれ時。

ふと、足元にラップ包みの冷凍ハンバーグの種が転がっていることに気づく。

拾い上げて、ラップの表面にマジックペン書きされた日付に目が留まった。





1年前の日付。
冷凍してあれば1年前の肉でも食べられるのだろうか?
冷凍庫に入れたまま忘れてしまったにしては長すぎる時間。




こんなにも長く、僕は何を忘れているのだろう。





冷え始めた手足の感覚を確認ながらハンバーグの種を冷凍庫に戻し、ドアを静かに閉めた。