見栄っ張りの流儀

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世の中には「長年連れ添った夫婦、もしくは恋人」なんていうものがあるそうですが、皆さんにおかれましてはいかがでしょうか。
幸せなことにお相手がいらっしゃる方、長年連れ添ってみて「ああ、自分は相手のこういうことろを良く感じるから続いているんだなあ」と思われる部分はありますか?
よく聞かれるのは直感的に惹かれるものがあったとか、一緒にいると楽ちん、安心するとかですね。
あるいは第一印象はピリリとしてあまり良くなかったのに、馴染んでいくにつれいないと物足りないなんていう薬味系のおツレ様もいらっしゃるかもしれない。
残念ながらおひとり様の方は「こんな人だったらしっくりくるんじゃないかしらん」という理想像はありますか?



私の場合は恋人も、ましてや夫もございませんが、これからそのような機会にぐまれるとしたらどんな相手がいいか考えてみますと、お互いを向上しあえるような関係だと素敵だろうなあと思うわけです。

こんなことをいきなり言い出したのは、先日、仕舞のお稽古事を再開したからなんですね。

ここからはそのお稽古事のお話です。
再開と言っても、何年も休んでいたものではなく、年明けから3月までの実質3ヶ月間だけの短期休暇です。
理由はいたってシンプルで、京都の西の果ての稽古場へ、底冷えのする駅のホームやバス停で長時間待ちながら通うのがしんどいから。
(数年前は冬期が繁忙期、残業シーズンだったという正当な理由がありました)
なんという不肖の弟子!
そういう訳で私の稽古はじめは春の訪れとともに、というのがここ数年の年中行事となっています。

大学の部活でなんとなしに入部した能楽部観世会。
(卒業年次の発表会の写真はブログ記事最後に貼りつけているプロフィールページに飛んだところに掲載しているので興味があればどうぞ)
卒業してからは先生のお稽古場に個人的に通い、仕舞*1のみ続けていて、気がつけばこの春で継続18年目を迎えました。
サボりつつではありますが、これだけ続けたお稽古事はこれだけで、いまだ京都に居残り続けてしまう理由のひとつにもなっている気がします。
いったいどうして、サボりながらでも続けているのか。
最近では観能のために能楽堂や梅雨始めの平安神宮に足を運ぶこともめったにない。
ますます不祥の弟子であるのに。


重心を下に落として、しっかりと足を摺って歩くから足腰が丈夫になりますね。
美しい型をすることによって姿勢が良くなりますね。
おなかから声を出すからストレス発散になりますね。
幽玄の世界を知って教養が深まりますね。
なんと言っても奥深い。なかなか私にはわかりませんが。


仕舞の稽古をしていると伝えた相手から発せられる主な反応まとめがこのような感じですが、私にしてみれば


農耕民族である日本人の自然なカタチだっただろうし、最近の若い子みたいな太股にスキマのあるスレンダーな足にはなりませんよ。
舞台上での姿勢を日常でも維持できるかは当人の心がけ次第ですよね。
そもそも大きい声を出すことが苦手だし、謡を覚えるのがいちばん苦手なのでストレス発散以前の問題ですよ。
・・・好きな曲なら歴史等々何かしら調べてみよう、役の雰囲気をどうしたら出せるか考えようという気も起きるけれど、苦手な曲の場合はそれこそ「型をこなしていく」だけになりがちで当人の中身は幽玄とはほど遠いのです。
幽玄というのは、やってる本人にとってはそんなの知ったことかという感じだし、あくまで結果として感じ取ってもらえればいいと思っています。
プロの方でもとことん役に没入される方、結果見えていればいいとお考えの方、いろいろのはずです。
そもそも素人の身の上としてはとにかくまずは師匠の型と教えを追う、それだけで手一杯。
手一杯なりに発表会に出れば、他のお弟子さんたちや観に来てくれた知り合いから誉められます。
チヤホヤされます!
このためにお稽古を続けているんじゃなかろうか。
数年前、きばって舞囃子*2を出させていただいた年に気づきました。
本当はもっと前に気づいていたけれど、あの時は自分自身でもやりきった感があった上に周りも大いに誉めてくれたので充実感がマックスで、それでああ私はこういう気分が味わいたくてお稽古を続けているんだろうなあとしみじみと感じたのです。
伝統芸能を素人なりに後世に伝えていく使命を心に秘めているとか、芸能としての能をもっと掘り下げたいという気持ちはあまりありません。
見栄っ張りな性格も持ち合わせる自分の自己満足のため。
なんてこった。


しかし、自分を満足させる舞、それはイコール師匠の舞なのであって、それに少しでも近づけるためには自分なりの稽古が必須となります。
会社が休みの日に何時間も・・・という方法は私には向いていないし、本来素人がそんな方法を取ろうとしてもプロとは基礎が違いますから、ほんのひと節だけでもいいからとにかく毎日、型や謡を身体に馴染ませる方法でないとなりません。
とにかく変なことは考えずに型を覚えるだけの期間を設けます。
私の性格上、それがもっとも自分の腑に落ちる方法だからです。

そういえば、腑に落ちるの「腑」は五臓六腑の腑、はらわた…まあ、おなかの部分ですが、この言葉の意味を体感したのはお稽古の最中でした。
何度やってもうまくいかなかなかった箇所で、ふと舞を舞う身体と謡と囃子がぴたっと合致した瞬間が訪れ「ああ、これか」と、胸の辺りでもやもやとしていた塊がすとんと下へ落ちて行ってつかえが取れたような心持ちがしました。
それで「ああ、なるほどなあ。腑に落ちるとはこういうことか」と変に納得したのでした。
サイボーグのように*3ひたすら型を身体に詰め込んで、何も考えず同じことを繰り返し繰り返ししていく中で少しずつ人間に近づいていけていたのかなあと感じる瞬間でした。


さて、平日の帰宅後に「おさらいの時間」を組み込むとなると帰宅後すぐにせねばならなくなってきます。
理由は簡単、ご飯を食べると寝ちゃうから―。
飲み会があれば当然そちらが優先されるし、はっきり言ってへこたれる率の方が高い。
それでも、翌日はきっと稽古する、そういう思いが大切ということです。
謡や型は毎日おさらいしていれば絶対に覚えられます。
だからまずは覚えること以上に、自分の気持ちと行動を律すること。
稽古とは自分を律することと見つけたり。
自分も周りも気分良くチヤホヤされるためにはそういう気持ちが土台にないとダメなのです。

発表会当日が人生のピークと定めて、それに向かって自分を律しながら生活していく。
会に出ると決めた年は、なんというか、出ない年より生活面がまともな気がします。
それで冒頭に申し上げたような、自分を高められるという実感があるからこそ、まあ、なんとなくでも続いているのでしょう。

遊びながら、サボりながらでも長く続けられるものがひとつでもあるのは、また楽しからずや。
願わくば今度は人間様の方でそのような関係性を作れる方を見つけたいものです。
男女は問いませんよ。





ぴーえす

3ヶ月ぶりのお稽古は「身体なまってる?」「ハイ!!」という問答の末、『須磨源氏』からとなりました。



ぴーえす2

お稽古では、新しい曲に入る時に最初の1回つきっきりで型を教えて下さる時がいちばん好きです。先生と一緒にひと通り舞うのですが、ダイレクトに身体の動かし方や間が伝わってきて、宇宙を感じます。能舞台の上、マジ、宇宙。




狂言サイボーグ (文春文庫)

狂言サイボーグ (文春文庫)



記事を書いているのはこんな人です。
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shiba-fu.hatenablog.com
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*1:能の一部を面・装束をつけず、紋服・袴のまま素で舞うこと。能における略式上演形態。

*2:能のある曲の中の舞所だけを取り出しシテ一人が面・装束をつけず、紋服・袴のままで、地謡と囃子を従えて舞う。最も面白い部分だけをぎゅっと詰め込んだ能のダイジェスト版。

*3:狂言師・野村萬斎さんの著書に『狂言サイボーグ』というエッセイがあります。 その中で「自らで自らの身体を完全に制御する」という意味で狂言師である自分をサイボーグと称されていました。