又吉直樹さんの小説第二作目 『劇場』 は恋愛小説なのか

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1作目『火花』より良い読後感で私は好き。

新潮 2017年 04月号

新潮 2017年 04月号

やっと又吉直樹さんの小説『劇場』を読みました。


2作目発表のニュースが出た時から読んでみたいと思っていたものの、新潮4月号の発売日を逃しちゃってたんですね。
少し経ってから書店に行ってみたら全然見当たらないので、ネット書店を検索したものの品切れで、仕方ないのでamazonで定価の2倍の金額で出品物を買ってしまいました。
待てなかったんや。
これから読む方は割高なの買うより来月まで待った方がいいよー。

劇場

劇場

【すごく大雑把なあらすじ】
小劇団「おろか」の劇作家・永田は8月のとある日、画廊の前で上唇のツンとめくれあがった赤い髪の女子大生・沙希と運命的な出会いをする。
劇団員の離反、沙希を交えての公演という出来事を経ながら、劇作家として / 人間としての苦悩と、永田と沙希ふたりの関係の変化が描かれてゆく。


火花』も読んでいる最中から結末に対して哀しい予感しかしなかったものでしたが、こちらも同様、読んでいて明るい気分にはなれるものではありませんでした。
それでも、今回の読後には作中に漂っていた焦燥感とか停滞感、閉塞感、嫉妬その他もやもやした諸々、登場人物たちが抱えているものを感覚的なところで共有できたように感じた、さらには愛おしさを感じられたのが、私の中での大きな違いでした。
(それは私自身が高校、大学と演劇に携わり、一時期は小劇団の劇作家とも付き合い、今でも観劇が趣味なので永田たちが活動する環境、その中での人間関係を想像しやすかったということが影響しているせいもあるでしょう)
『火花』は読後「えっ、何なんこれ? おっぱいってどういうことやねん先輩?」ってあまりにも突き放された感しか残らなかったんですよね。
一方、『劇場』はそういう「わからないところがあるから文学やねん」という主張めいたものも柔軟化されていたように感じました。


又吉さんはこの小説について「演劇や恋愛や人間関係の物語。自分にとって書かずにはいられない重要な主題」とコメントしています。
『火花』に対して「むずかしい」という感想が多く寄せられたため、二作目はより大衆性のある恋愛要素を盛り込もうとしていたのもインタビュー等で言われていた通り。
物語は永田と沙希二人の男女の関係をメインに進んでいきます。
「より多くの人たちに受け入れられるもの=恋愛小説」
たしかに恋愛小説ですよーと打ち出せばこの上なくキャッチーで気軽に手に取ってもらえるし、読み進められますよね。
とは言え、読んでいってもいわゆる一般的に期待されるような恋愛的劇的展開は出てきません。
かと思えば、中盤を過ぎたあたりでふいに沙希が永田に「わたし、お人形さんじゃないよ」とつぶやくシーンがあったりして生臭いところはちゃんと感じられます。(この台詞が出てくるあたりの沙希のくたびれ具合が痛々しくてギュッとした)


恋愛小説的にキュンキュン♡とするもどかしさはないにしろ、この小説には人間関係の始まりから、もつれこじれ、終わりまでがたくさん転がっています。
その中でいちばんどうしょーもないのが永田。
変なことをして動員が減ることを「おろかってる」と言われてしまうくらい同業者の中で嘲笑の対象になったり、劇団員がごっぞり辞めていく時に辞めていく方に責任転嫁してしまったり、働かず年下の沙希のヒモになったり、永田に対して健気に尽くす沙希が病んでいってもふざけて彼女を笑わせることに全力を注いだり・・・読んでいる方としては「いや、ちゃうやろ、もっとちゃんとせな人間としてあかんやろ」と思わずにはいられません。

そもそも、そんな前向きに生きていけるんやったら、演劇なんてやらんよ。勉強しなさい。綺麗な服着なさい。髪型ちゃんとしなさい。美しい言葉を使いなさい。それに疑問を持たんと言う通りにしてきた人間がどう間違えたら大学も行かんと東京出てきて劇団なんて始めんの? 表現に携わる者は一人残らず自己顕示欲と自意識の塊りやねん。俺もキミ達も、相手から受ける攻撃減らすために笑ってるだけやろ。そもそも、はなから馬鹿にしてたキミ達に否定されたところで反省しようとは思われへんな。


劇団員との言い争い中、こんな理屈をとうとうと垂れ流す男が永田です。
こんな永田を、自分がどんどんしんどくなるのに好きでいることをやめられなかった沙希ちゃんが、私は好きです。
沙希ちゃんは東京の服飾系大学に通っていますが、本当は女優になりたくて青森から上京する建前として進学を選んだ子なんです。
でも、上京してわりとすぐに「これは叶わないな」と気づいてしまう。
普通の感覚の子ならそうなると思います。
地方から出てきた女の子が簡単に委縮してしまうくらいの情報、サンプルは歩いていれば嫌というほど転がっているから犬でなくてもそこかしこでぶつかって、どんどん擦り傷を作っていくことになる。
そんな中で永田という、演劇をするために大阪から東京に出てきてぱっとした芽も出ないのにずっと自分の理想にしがみついて泣きながらふざけて生きているしょーもない男と関係を持ってしまった。

そんな永田だけど沙希ちゃんにとっては「自分が立ち向かえなかった東京に(傍から見たら狂ってても気持ち悪くても)ちゃんと挑み続ける人間」で、憧れみたいなものがあったんだと思います。

だからヒモという立場からいつまで経っても変わらない永田を負担に思うようになってしまった自分自身に対して嫌気がさして、自責するようになっていきます。

「永田=東京=憧れ」から離れなければならない決断が情によって鈍っていく。

『劇場』は恋愛というより、そんな情の比重のほうが大きい小説でした。



さて、二人には別れるという選択肢しか残されなかったわけですが、私は二人が沙希ちゃんの部屋で荷物を片付けていくラストシーンがとても好きです。
片付け終わってから、かつて二人が共演した芝居の脚本を見つけてそのセリフを読み上げていく中でやっと正直な気持ちを吐露していくシーン。
ううん、このシーンの前から続いていた、二人で沙希ちゃんの部屋に向かっていくところから好きでした。
二人と、そのまわりの世界にこの上なく優しい時間が流れていて、又吉さんが執筆中この作品自身に鼓舞されて「ごめんな」「ありがとうな」と小説に呼びかけていたという感覚が「わかる」最終章でした。


演劇の可能性って、演劇ができることってなんやろうって、最近ずっと考えてた。ほんならな、全部やった。演劇でできることは、すべて現実でもできるねん。だから演劇がある限り絶望することなんてないねん。わかる?


演劇が行われる場所全てが劇場になると言って実践したのは青森県出身の劇作家・寺山修司さんでしたよね。
施設の枠を超えて市街地や日常空間もがすべて「劇場」となる。
生きている人間はみんな入れ替わり立ち替わり役者や観客として出会って時間が流れていっているという見方。

いたるところにある「劇場」の存在に気づいて、悲劇でも喜劇でもラブロマンスでもファンタジーでも何でも可能になる演劇という万能フィルターを通して見、感じることができるならこの世界はどこまででも自由だ。
永田のこの思いは、又吉さん自身のものなのでしょう。


さいごに。
私は永田のルックス、声を又吉さんのもので思い描きながら読み進めていました。
また、冒頭出てくる沙希ちゃんとの出会いのエピソードも何だか初めて読んだ気がしない・・・この部分は又吉さん自身の恋愛エピソードが元になっていたそうです。
今作は又吉さんのいる業界の世界の話でもなく、私小説というわけでもないけれど、又吉さん自身を強く感じられる物語でもありました。



ぴーえす
劇中劇として上演された永田と沙希ちゃん(と永田の親友・野原)の三人芝居、永田が嫉妬の対象としている劇団『まだ死んでないよ』が東京芸術劇場で上演したギリシャ悲劇を元にした芝居は、それぞれを単体で観てみたいと思うくらい面白そうなものでした。
特に後者は舞台装置・小道具の使い方、演出まで説明されていて具体的にイメージできたから余計に実際の劇空間で役者と観客が一体となって創りあげる高揚感を味わいたくなりました。


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